人と関わる

人と関わる。それは、相手を傷つけること。救うこと。

僕がしてるのは、どっちなのだろう。

救うことはほとんどしていない。傷つけてばかり。
人と関わるのが辛い。

声かけは、その人と関わりたいという欲求。
本当は声かけには、覚悟が必要なはずだ。
でも誰もそんな重大なこと気づいていない。

生きる。人と関わるということ。
だったら徹底的に相手を傷つける覚悟で、自分も傷つく覚悟で相手と向き合う。そういう覚悟を、エネルギーを持てる相手は慎重に選ばなければいけない。「お付き合い」と「関わる」は違う。ほとんどの人間関係はお付き合いだ。関わってない。交わらない。会社、学校、友だち、家族…。お付き合い。「関わる」は重い。人生が交わる。相手を受け止める。だから闇雲に中途半端に関わってはいけない。無駄に相手を傷つける。無責任だ。人と関わることに覚悟を持つ。その時初めて、わずかにでも相手を救えることができるのではないだろうか。

話すスピードを調整する

声かけは、何を話すかより、どう話すかが重要だと思う。

その一つが話すスピード。知らない人に話しかける時、話すスピードは自然と早くなる。ただ早口で話してしまうと、相手は聞く態勢を取れない。早口は攻撃的な印象を与える。人が早口で話すのは、怒ったり、反論する時だから。

声かけの時は自分の話すスピードに意識を向けて、いつもの会話より少しゆっくりしてみる。それだけで相手に安心感を与えることができる。

ただ一様に声のスピードを落とせばいいわけではない。少しゆっくり話しかけても相手に緊張感がある時はもう少しスピードを落としてみる。逆に話しかけて相手に緊張感がない場合は、話すスピードを維持するか、少しだけ早くしてみてもいい。

大切なのは相手の状態に合わせて 、自分の声のスピードを調整すること。話しかける前に相手の状態を感じることも大切だけど、第一声から調整するほうがもっと大切だと思う。声をかければ、反応がなくても、相手の状態はわかるから。

第一声で無視される時もあるかもしれない。それでも諦めないで、根気強く、優しく話しかけたほうがいい。無視された時は、間が生まれていることが恐くて、一方的に早口で話しかけやすい。無視されたら、改めて相手に意識を向けてみる。相手の目線の先、歩き方、服装、靴。なんでもいい。そこから相手の状態を感じようとすること。相手の状態がわかれば、相手への恐怖心も消えていく。その時、1、2秒の沈黙が生まれるかもしれない。でも恋人や友人と話す時。1、2秒の沈黙や、お互いが相手に意識を向けてない状態はあるのだから。沈黙は気まずくない。その瞬間、逆に相手を観察できるチャンスだと思ったほうがいい。

どんな時でも冷静に諦めないで、相手に意識を向け続けて、声のスピードを調整すれば、人は話を聞いてくれる。

コミュニケーションとしての瞑想

瞑想とはなにか。
多くの人がイメージするのは、ひとつの場所にじっと座って深い内省に入っている姿だろう。それは日常とはかけ離れた行為。ご飯を食べる、本を読む、映画を観る、といった行為とは異質ななにか、スピリチュアルななにかを連想させる。確かに瞑想は宗教、とりわけ仏教との関係性があるし、そういった側面があるのは否定できない。ただ僕自身いくつかの瞑想法を学んでいえるのは、それはひとつの定型的なイメージに過ぎないということ。瞑想はもっと僕たちの身近にある。

瞑想とは何かに心を集中させることwikipediaにはこう書かれている。これはいいい説明だと思う。何かに心を集中させる。それは誰もが日常の中で経験している。たとえば、読書。本を読み始めて気づいたらもうこんなに進んでいたのか、という経験は誰にでもあるはずだ。ご飯を食べる時はどうだろうか。ご飯に心を集中させるとは、吉野家で牛丼を一心不乱に食べることではない。テレビを見ながら、新聞を読みながらでもない。それは味、食感、匂いを感じながら食べることを意味する。何かに心を集中させるとはその対象にしっかりと意識を向けることであり、そうすれば自然と味わおうとするからだ。確かに日常の中で瞑想(何かに心を集中させる、対象に意識を向けること)をしている時は少ないかもしれない。それでも誰もが瞑想体験を持っているといえる。ただそれを無意識に行なっているだけだろう。

瞑想的/非瞑想的な行為

むかしゼウキシスとパラシオスという二人の画家がいた。どちらがより写実的な絵を描くことができるか、その技術を競うことになった。ゼウキシスは壁に本物そっくりの葡萄を書いた。鳥が飛んできて、その葡萄をついばもうとしたほどに絵は写実的だった。出来ばえに満足したゼウキシスは勢い込んで、「さあ、君の番だ」とパラシオスを振り返った。ところが、パラシオスが壁に描いた絵には覆いがかかっていて見えない。ゼウキシスは苛立って、「その覆いをはやく取りたまえ」とせかした。そこで勝負がついた。パラシオスは壁の上に「覆いの絵」を描いていたのである。

瞑想に関する本を読んでいて、瞑想的/非瞑想的な行為の比喩としておもしろい例があったのでそのまま引用した。*1

ゼウキシスが勝負に負けた理由。それは現実を見誤ったからにほかならない。彼にはまず「絵とはこういうものである」という思い込みがあり、それゆえ目の前にある現実を認識することができなかった。「絵に覆いがかかった絵」を描く人はいないと思っていたのである。なぜそのように判断してしまったのか。それは過去の経験や常識に執着していたからだろう。過去の経験や常識から思い込みが作られ、それにしがみついていたのである。彼の行為を「非瞑想的」と定義すれば、「瞑想的」とはなにかがはっきりする。さきほど瞑想とは「何かに心を集中させる、あるいは対象に意識を向けること」と言い換えた。この絵に覆いがかかった絵の例を参照するなら、もう一つ付け加えることができる。それは過去の経験や常識を手放して、現実と向き合うことである。

観察しても相手は見えない

そろそろ本題に入ろう。ナンパと瞑想についてである。僕は瞑想がナンパにおける相手を観察するという点において、とても重要だと思っている。

一般的に相手を観察するというのは、相手の心理状態を探ることだ。ナンパでいえば、目の前にいる女の子が何を感じ、どのように考えているのかを知るということ。楽しんでいるのか、退屈しているのか。恋愛経験は豊富なのか、浅いのか等々。女の子の表情、仕草、会話、声、服装などから、心理状態を想像する。つまり観察するというのは相手をただ見ているだけでなく、相手から発せられる情報に意味づけをすることでもある。

観察には必ず主観が伴う。当たり前すぎる話かもしれない。ニュートン万有引力の法則を発見したのは、「りんごが木から落ちた」のをただ観察していたわけではない。そこに意味づけをしたことによって、一定の法則を見出したのだ。ナンパが上手くなること。女の子を観察し続けることも、そのような法則を見つけることだといえる。声のかけ方、ギラやグダ崩しの方法、即りやすい女など。積み重なった経験よって観察力は磨かれる。

科学なら再現性は高いだろう。しかし、ナンパにおいて再現性の高い法則はあるのだろうか。いくら上手い声のかけ方をしても、断られることのほうが多い。それにもかかわらず、ある法則を見出そうとするのは、過去の経験や知識に執着することではないだろうか。紋切り型のギラやグダ崩しなどが典型的だ。それはまさにゼウキシスと同じ、非瞑想的なふるまいだといえる。

観察しても相手は見えない。むしろ観察しようとすればするほど、現実の相手とはズレが生じる。繰り返しになるが、観察とは自分の枠組みで相手を見ることであり、見たいように見ているだけだからだ。相手を本当に観察できるとしたら、それは「観察している自分を捨てていく」ことによって成立するのだと思う。自分の思考から離れて、相手に意識が向いている状態。その時、相手の心理状態を探る必要はない。相手の心理状態はおのずと自分の内に浮かび上がるのだと思う。

瞑想的なセックス

少し前にナンパで知り合った人妻とすごくいいセックスをした。いま思えばそれがとても瞑想的だった。セックスしている時、こうしようなどと考えている自分はいなかった。「相手の身体に触れている時、相手の表情をよく見なさい。」とはよくいわれるが、そのような意識さえなかった。でもいつもより相手の身体に触れ、相手の表情を見ていたのだと思う。相手が存在せず自分も存在していないような感覚。あるいはセックスという行為そのものになった気がした。射精的な「気持ちいい」という快楽はほとんどおまけで、挿入以前に身体中から幸福感が湧き上がってきた。うまく説明できないが、自分を手放して相手と向き合うという瞑想の状態に近かったのだと思う。

なぜ瞑想的なセックスができたのかは自分でもまだよくわかっていない。それでも原因を探ると、自分も相手もセックスする前に緊張感があったことは大きかった気がする。相手がどうでもよかったら緊張はしないし、余計なことばかり考えてしまう。その時は自分の感情を相手に偽りなく示し、向き合う覚悟があったと思う。

ただ、その人妻とした2回目のセックスは瞑想状態とほど遠かった。それは1回目にいい体験ができたので「もっといいセックスをしたい」という欲望が出ていて、頭で考え過ぎていたからだと思う。テクニックやマニュアル的なことに意識が向き、目の前の相手と向き合っていなかった。そうやってテクニックやマニュアルに執着すると、瞑想的なセックスへの扉は閉ざされてしまうのだろう。セックスは1回目より2回目、2回目より3回目のほうが良くなるとは限らない。その点は、じっと一つの場所に座る瞑想ととても似ている。本当は相手が同じでも二度として同じセックスはないのだから。

コミュニケーションとしての瞑想

瞑想はじっと座って深い内省に入るよりも、コミュニケーションにおいてより意味を持つのだと思う。

先日習ったロシアの武術・システマでは構えや型がないと聞いた。構えや型を捨てることによって、相手の動きに瞬時に反応できる。本当は反応すらしていないのかもしれない。反応とは、相手の動きが先にあり、それに対応する動きだが、システマ的に構えや型を手放すとは、相手が動いたと同時に自分も動いていることに近い。

コミュニケーションも同じだと思う。コミュニケーション能力を向上させようとするのは、構えや型を持つことを意味する。構えや型を持てば、自分の内側が固まっていく。すでに述べたようにそれは自分の枠組みを通して相手と接することだからだ。相手の動きに反応すれば自分の動きに遅れが生まれるように、自分の枠組みを持つことは相手とのズレを生む。そのズレを解消するのに瞑想は大いに役立つのだと思う。

サンガジャパン Vol.11(2012Autumn)

サンガジャパン Vol.11(2012Autumn)

*1:サンガジャパンvol.11「なぜ、いま瞑想なのか」に寄稿されている内田樹の「身体と瞑想」より

『愛の授業2012』

先週の土曜日、新宿のロフトプラスワンで開催された『愛の授業2012』に行ってきた。昨今カリスマナンパ師と呼ばれている高石さん、しんじさんに加え、社会学者の宮台真司さん、ナンパカメラマンの鈴木陽司さんによる豪華なトークイベント。この企画を知ったときから本当に楽しみにしていた。

イベントに行く前、ナンパをしている人間として「自分は何を期待して見にいくのだろう」と考えていた。僕は宮台真司ファンであり、宮台さんが昔からナンパについて論じていたのも当然知っていた。高石さん、しんじさんもご自身のブログ、ツイッター、ナンパの手帖などで積極的にナンパについて語ってきた。宮台さん、高石さん、しじんさん。僕は三人のナンパ論がほぼ語り尽くされている気がして、自分のこれからのナンパに影響があるのか少し疑問に思ってた。

身体性をもつ、エネルギーをもつ「ことば」に触れた

「住田がんばれ!住田がんばれ!」。今年公開された園子温監督の『ヒミズ』のエンディング。茶沢さんが住田に向かって叫んだことば。「がんばろう日本」「がんばろう東北」という「がんばれ」が全く人の心に反響しないのに比べ、茶沢さんが住田に叫ぶ「がんばれ」は観客の心を打ったはずだ。それは茶沢さんがことばだけではなく、住田という人間に飛び込む身体性をもって、強烈なエネルギーをもって、叫んだことばだからだろう。いまこれを書いていて、ふと『ヒミズ』を観て感じたことを思い返した。

長いトークイベントだし、僕はメモの準備もしてたけど、始まって10分くらいでメモを取ることも、ツイッターでつぶやくこともやめた。高石さんのしんじさんの宮台さんの鈴木さんのことばを聞くのではなく、身体で受けとめようと。宮台さんが話してた内容。内在系/超越系、ヴァーチュ、ここではないどこかへ、マーケットイン/プロダクトアウト型のナンパ、ナンパ師の逆説問題等々。それらのワードを僕は知っていたけど、それはまさに「知っていた」だけだった。高石さん、しんじさんの話も同様に。

彼らが真摯に自分と他者と向き合って生まれたことばが、そこにあった。傷ついて絶望し、そこから立ち上がって生まれたことば。それはあの会場の中にいた人にしかわからない。身体性をもつ、エネルギーをもつ「ことば」が自分の体にズンズンと染み込んでくる。ことばというのはあらためて聞くのではなく、触れるものだと実感した。それはナンパの声かけでも大切なこと。相手に触れる声かけができるかどうか。それが声かけの歩留まり率を上げる方法だ。彼らのことばに触れて、自分の中の芯がはっきりと動いた。もっとナンパに、自分に、他者に、向き合わなければいけない。

相手に飛び込む自分をつくるという決意

小野美由紀さんの『愛の授業2012』の記事を読んで、僕も同じような感想を持っている。「他者を受け入れる=優しさ」と勘違いしていた。他者をどんどん受け入れていくことによって、他者の承認欲求を満たしている自分にホッとしている。だから過去の恋愛でも、現在のナンパでもマーケットイン型になっている。他者の心のよりどころになってあげるだけで、自分から他者の懐には飛び込めていない。即系の女の子にモテる気がするのも、そういうタイプだからだと思う。

4月から呼吸のワークショップに参加している。呼吸をしていると、自己と他者(世界)の境界性があいまいになったり、自分に強いエネルギーがみなぎってきたりする。すると相手に飛び込んでも怖くなくなる。呼吸のワークショップのあと、渋谷でナンパしていると、ガンシカされても全く動じない(ガンシカされることも少なくなる)。相手の心が閉じてるとしか思えないから。自己啓発的だなとも思う。でも自分をより高いステージに上げる姿勢自体は大切だ。自己啓発的な発想は悪くない。問題は自己啓発的な発想にあるのではなく、それに触れた人間がどのように他者に接することができるかだろう。

相手に飛び込めるだけの自分をつくること。ナンパをはじめ、呼吸、そのほかもっといろんなことを吸収して、魅力的な自分を目指していきたい。年収何百万円とか、試験に合格するとか明確な目標があるわけではない。もし自分が相手に飛び込めるようになったと思えたら。そのときナンパを終えるのもしれない、といま漠然と思っている。

最後に

本当に心が揺さぶれる体験だった。心の底から行ってよかったと思う。でもイベントが終わったあと、すぐ家に帰ってしまったのはちょっと後悔している。しんじさんと話してみたかった。ツイッターを通して知ったナンパ師の方も何人かいて、お話すればよかったなと。あのときは自分の身体、骨まで染み込んだことばが外に漏れるような気がして。本当に酩酊状態になりボッーとしていたのもある。

宮台さんの『愛の授業2012』総括をまとめてくれた人がいます。宮台真司先生の「黒光りした戦闘状態」
しんじさんのイベント前の意気込み。感動的。宮台真司 愛の授業 2012
イベントのハッシュタグ #miyadainp

ナンパという行為を決定づける要素

日常的にナンパをしていながら、ナンパということばが嫌いだ。そのことばから連想するのは「チャラい」「軽薄」といったワード。堂々と周りの人に「趣味はナンパです」と宣言できないのは、ナンパの世間的なイメージが、公にするべきではない・忌むべき・モラルに欠ける行為だからだろう。

昨日、渋谷でストしていた時の話。少し緊張した面持ちで男の子が女の子に話しかけている。「出身どこ?」「○○です」「本当に!?おれも○○だよ!」。ちょっと離れた場所から見ても、彼の緊張が伝わり、無理に打ち砕けた言い方で話しかけているのがわかる。サークルの新歓で集まっている大学生の一群を観察していた。

「出身どこ?」と女の子に話しかけた彼。「すいません」と女の子に話しかけた僕。彼も僕も、いま出会った見知らぬ他者に話しかけている。でも彼の声かけは忌むべき行為ではないし、僕の声かけはモラルに欠けているのかもしれない。一体、どこを境にして「見知らぬ他者に話しかけること」がナンパというネガティブな文脈に引き込まれてしまうのだろうか。

「共有感の弱さ」と「性的欲望の強さ」がナンパを生む

ケース1:海外旅行中、旅先で日本人と思われる男を見つける。自分と同い年くらいかもしれない。何のために来ているのだろう。そこで自然と話しかける。「日本人ですか?」

ケース2:海外旅行中、旅先で日本人と思われる女の子を見つける。自分と同い年くらいかもしれない。何のために来ているのだろう。かわいいな。そこで思い切あって話しかける。「日本人ですか?」

ケース3:家の近くのコンビニには、かわいい女の子のスタッフがいる。もう何度も行っているので、お互い軽いあいさつ程度はする仲だ。でももっと女の子に近づきたい。お店の中ではあいさつ以上の会話ができない。ラブレターを書いて、渡すことに決めた。「個人的な手紙なのですが…」

ケース4:路上で女の子に声をかける。「すいません」

最初の声かけだけでナンパと定義できるのはどのケースだろうか。まずケース4。これは路上で声かけしているので明らかにナンパ。ケース3も女の子は「ナンパされた」と思うはず。ではケース2は?男が女の子に対してかわいいと思っていても、女の子はそれに気づかない。「同じ日本人という共通点があったため話しかけられた」と解釈するので、ナンパとはいえないだろう。ケース1は明らかにナンパではない。

上のケースを見ていくと、「ナンパ」という行為を決定づける要素は、「共有感」と「性的欲望」だと思う。共有感とは他者と「場/空間/状況」を共有しいてる感覚。この共有感が強ければ相手は話を自然と聞いてくれるし、逆に弱ければ相手は不自然に思って話を聞いてくれないかもしれない。ケース1とケース2では「日本から海外に来た」という状況が強い共有感を生み出しているため、相手はこちらの声かけに間違いなく応じる。一方、ケース4では何も共有していないのでガンシカされることもある。ちなみにクラブで女の子に声かけするのは明らかにナンパだけど、クラブという場を共有しているので、路上と違って無視されることはない。もう一つのカギは性的欲望。共有感がどれだけ弱くても、性的欲望がなければ、ナンパとはいえない(ケース1)。ケース1で話しかけたのが男ではなく女でも、老人やかわいくない子だったら、ナンパとはいわない。「ナンパ=チャラい」と思われるのは、その性的欲望があらわになっているからだろう。


性的欲望はキッカケにすぎない

ナンパという行為には必ず性的欲望が伴う。ではナンパの成功とは相手とセックスして性的欲望を満たすことだろうか。ナンパ師のほとんどはそう思っているのかもしれない。何ゲットしたかという量によって、あるいはいかにいい女をゲットしたかという質によって、ナンパの成功が決まっていくのだろう。

僕自身についていえば、最近セックスに飽きた。もっといえば、セックスに至るまでの単純なプロセスに飽きた。居酒屋で口説いて、家に連れてきて、服脱いで、抱きしめて、腕枕して、寝る。相手は変わっても同じことの繰り返し。「今日もうまくいったな」と自分のテクニックを再確認するだけで、そこに喜びはない。

繰り返しになるが、性的欲望は重要だ。しかし、それはあくまでもキッカケにすぎないと思う。ナンパの面白さは、その先にある体験だろう。それは、普段の人間関係から離れて、知り合う必要もなかった人と知り合うこと。社会的な属性から離れて、子どもでも学生でも社会人でもない自分に気づくこと。いままで触れたこともない価値観に出会うこと。見ず知らずの人に自分の人生を接続すること。相手の人生に影響を与えること。あるいは自分の人生に。ナンパの面白さはそこにあると思う。

『自然体のつくり方』斎藤考著

自然体のつくり方―レスポンスする身体へ

自然体のつくり方―レスポンスする身体へ

いかに自然体で話しかけることができるか。それが声かけにおける重要な要素の一つだろう。

しかし、これが難しい。ナンパを始めたばかりの頃は、“自然”とはほど遠い緊張と不安が身体を支配する。「会話が続かなかったらどうしよう」「変な人だと思われたらどうしよう」「第一声が思い浮かばない」…。すべて瑣末な心配ごとだと分かりつつも、身体がなかなか動いてくれない。さてどうやって解消するか。ナンパマニュアル本を読む。そこにはこう書かれている。「キャラ(○○系)を演じなさい。そして以下のような流れで声かけすればうまくいきます」。誠実系、チャラ系、お笑い系…ナンパには色々な系統があるようだ。間接法、直接法ということばも出てくる。「じゃあ、僕は○○系かな」。そう、これが大きな落とし穴だ。キャラを演じるというのは鎧を着ることと似ていて、相手に自分の感情を読まれないようにしているだけ。つまり自分の緊張や不安から目を逸らしているに過ぎない。

僕はいまだに声かけで緊張する。以前は自分をキャラ化して、会話のテンプレを頭に入れて、声かけしていた。これは楽な方法だ。緊張や不安も少ない。いまはありのままの自分で、会話は流れ任せ。だからいまのほうが緊張しているのかもしれない。それでも無理に緊張や不安を隠さずに、「あ、いまちょっと緊張しているな」とメタ的な視線で自分を見つめる。そうすると自然に緊張や不安が和らいでくる。すっと女の子の視界に入って話しかける。単純そうで難しい。もっと自然に声をかけられたらいいのになと思う。そもそも見知らぬ人に声をかけるというは“不自然”な行為である。そこで“自然”な声かけとは何なのだろうか。そのヒントが『自然体のつくり方』に書かれている。

技としての自然体

「自然体で臨め」という時の“自然体”とは何だろうか。一般的には無駄がなく、リラックスした状態のことだろう。しかし、著者は自然体=技*1として捉えて、以下のように定義している。

からだに中心軸がとおっていて、安定感があり、リラックスしながらも覚醒しているような身体のあり方。こうしたあり方は、かつて自然体と呼ばれていた。自然体とは、自分の中心は崩れないで、周りの状況に対して柔軟に「当意即妙」に対応できるような身体のあり方である。(p.21-22)

意識の全体をかりに十とするならば、半分の五を他者に向けつつ、残りの五は自分自身の内側へ向かう意識として残しておく。状況に応じて外/内の意識の配分を調節する。外部を意識すると同時に内部を意識する。こうした意識の配分の技が、自然体にはともなっている。(p.34)

「リラックスしながら覚醒」「外部を意識すると同時に内部を意識する」といった矛盾しているようなことばが並んでいるが、つまりは心身ともにバランスが取れている状態のことだ。著者はそれを「上虚下実」とも言い換えている。上半身、とくに肩やみぞおちの力が抜けていて「虚」となり、下半身は力強く張りがある「実」の状態のことらしい。

ナンパに話を戻すと、自然な声かけをするには、意識的に自然体を作る必要がある。具体的な方法は本書の一部に書かれている。これはすぐに実践できるものではなく、訓練・練習を要するものだ。それでも少し試してみれば、身体動作が心の安定感を生み出すことに気づくはずだ。声かけでの緊張や不安。それらを取り除くのは、キャラ化などのテクニックではなく、自然体という身体のあり方なのだろう。

他者との間合いを感じる

自然体で声をかけることができたとしよう。相手から反応がある。そこでそれに応える。ナンパはコミュニケーションの積み重ねといっていい。著者は、このような他者からの働きかけに対して、なんらかの応答をする力では、距離感覚(物理的な距離ではなく、身体感覚)が重要だと述べている。そして武道でいう「間合い」に例えて以下のように説明している。

自分がどの程度、踏み込めば相手に技が決まるのか。それを感じとりながら相手との距離を詰めたり開いたりしていくのが間合いの感覚だ。相手との間合いを刻一刻、感じとりながら、微妙に自分の構えを変えていく。このような構えと間合いの微妙な連携が、コミュニケーション力にとっては重要である。(p.144)

声かけした時、相手の反応はさまざまだ。積極的に自分のことを話してくれる人、こちらの質問のみに応える人、話をただ聞いてうなずくだけの人…。まず自分と相手がどのくらいの距離感覚にいるのかを認識するのが大切なのだろう。連れ出しやアポでも同様のことがいえる。自分と相手との距離感覚を意識することによって、うまく距離を縮めていくことができる。最終的には相手に技が一歩決まる手前、懐に入った状態まで近づけば、セックスするのは容易になる。話はやや逸れるけど、この文脈でいうと簡単に技にかかってしまう、一気に距離を縮めても反応が薄い人が即系なのでしょうね。

ナンパは“沿いつつずらす”行為

自分ひとりの目的に合わせて勝手に動くのではなく、相手の方向性にまず沿うことが、関係のエネルギーを高めることになる。沿いつつずらすといっても、行き先をこちらが勝手に固定化してしまっていれば、上手な営業マンのセールスと変わらなくなってしまう。ここでのずらしは、あらかじめ決められた結論や場所に相手をもっていくというのではなく、動きのなかで、その動きをより活性化するような方向へと、方向をずらすということである。(p.165)

上の文を読んで、ナンパは“沿いつつずらす”行為が理想だと思った。ナンパのマニュアル本やNLP関連の本では、相手に寄り添うことの大切さがよく書かれている。具体的にいうと、ミラーリングラポール、共感トークといったやつだ。とにかく相手に寄り添いましょう。そうすれば親密さが生まれます。本書の著者もまずは相手の力に沿うことが重要だと述べている(とくに相手の呼吸をはかって息を合わせることを重要視している)。その上で、関係を活性化させるには「ずらし」がカギになるといっている。

上の引用にも書かれているとおり、ここでの「ずらし」はあらかじめ決められた結論や場所に相手をもっていく動作ではない。つまり、連れ出しや即を目的として、相手に接することは間違いである。むしろ連れ出しや即は結果として捉え、まずは二人の関係性がどうすれば活性化するのか、そこに焦点を当てることが重要なのだろう。

ナンパをしている以上、連れ出しや即、あるいは準即をできたかが成功/不成功の分岐点になってしまうのは否定できない。ただし、それはあくまでも結果として捉えたほうがいいだろう。重要なのはいまお互いがどのような関係性にあり、どこをどのように刺激すれば、お互いの関係性が活性化するのか、そのことについて考えたほうがナンパはうまくいくのではないだろうか。

*1:かつての日本では、自然体が日常生活に浸透していた。しかし、文明の発展によって生活様式が変化し、自然体が失われた。とりわけ日本では身体の基本的な動作を「文化」として捉え尊重してこなかったため、自然体を技化で取り戻す、というのが著者の主張である。

僕らがナンパをする理由

それなりにナンパができるようになってきた。

声かけの恐怖心は無いし、もう地蔵になることはない。バンゲもたくさんして、携帯電話のメモリーは増えていく一方。バンゲしたけどめんどくさくて、メールを送っていない子もいる。LINEではリアルな友人と同じくらいナンパで知り合った子がいる(笑)。即や準即も何度か経験済み。セフレが何人かいる。

で、我に返った。なんのためにナンパをしているのだろう。

僕らがナンパをする理由

ナンパする理由は人それぞれだ。僕は宮台真司さんの影響で、ナンパを通して他者性を獲得したいと思った(詳しくはこの記事で)。具体的にいうと自意識過剰な思考から脱却して、その場その場で相手の欲求に自然と応えられるような人間になること。他のナンパ師のブログを見ていると、ナンパをしている動機には「かわいい子とセックスがしたい」「コミュニケーション力を磨きたい」「刺激的な日々を送りたい」などがある。ナンパ師によって動機はさまざまだけど、突き詰めていくとすべては「現状の自分に満足していない」からだろう。

かわいい子とセックスしたことがないからしたいし、コミュニケーション力がないから磨きたい。退屈な日常だから刺激的な日々にしたい。僕は他者性がないから獲得したい。つまりナンパ師は何かが欠落しているから埋め合わせたくなる人たちなのだろう。「別にナンパじゃなくてもいいだろ!」って突っ込みは置いといて、ナンパを通して自己充足感に浸りたいようだ。「ただでナンパする!」(このブログはオススメです)のフミトバンクさんの言葉を借りれば、僕らの原動力は「ロスト感」。これはいい言葉ですね。

で、ロスト感は解消されるの?

かわいい子とセックスした。コミュニケーション力が身についた。刺激的な日々を送っている。で、ロスト感は解消されるのだろうか。まだそこまで到達していないけど、答えはおそらく「否」だろう。そもそもロスト感を解消するということは、現状の自分に満足し、万能感に浸ることだ。もしナンパをしていくうちにそのような状態になったら、それはちょっとヤバいでしょ。

どんなに女の子を口説いても、ロスト感は解消されない。それに気づくことがナンパの醍醐味なのではないだろうか。自分のロスト感をありのまま受け止めること。だからいろんなスキルを身につけようとするのではなく、むしろ逆だ。積極的にいろいろなモノを捨てることができる。ナンパの一つの到達点はそこにある気がする。