コミュニケーションとしての瞑想

瞑想とはなにか。
多くの人がイメージするのは、ひとつの場所にじっと座って深い内省に入っている姿だろう。それは日常とはかけ離れた行為。ご飯を食べる、本を読む、映画を観る、といった行為とは異質ななにか、スピリチュアルななにかを連想させる。確かに瞑想は宗教、とりわけ仏教との関係性があるし、そういった側面があるのは否定できない。ただ僕自身いくつかの瞑想法を学んでいえるのは、それはひとつの定型的なイメージに過ぎないということ。瞑想はもっと僕たちの身近にある。

瞑想とは何かに心を集中させることwikipediaにはこう書かれている。これはいいい説明だと思う。何かに心を集中させる。それは誰もが日常の中で経験している。たとえば、読書。本を読み始めて気づいたらもうこんなに進んでいたのか、という経験は誰にでもあるはずだ。ご飯を食べる時はどうだろうか。ご飯に心を集中させるとは、吉野家で牛丼を一心不乱に食べることではない。テレビを見ながら、新聞を読みながらでもない。それは味、食感、匂いを感じながら食べることを意味する。何かに心を集中させるとはその対象にしっかりと意識を向けることであり、そうすれば自然と味わおうとするからだ。確かに日常の中で瞑想(何かに心を集中させる、対象に意識を向けること)をしている時は少ないかもしれない。それでも誰もが瞑想体験を持っているといえる。ただそれを無意識に行なっているだけだろう。

瞑想的/非瞑想的な行為

むかしゼウキシスとパラシオスという二人の画家がいた。どちらがより写実的な絵を描くことができるか、その技術を競うことになった。ゼウキシスは壁に本物そっくりの葡萄を書いた。鳥が飛んできて、その葡萄をついばもうとしたほどに絵は写実的だった。出来ばえに満足したゼウキシスは勢い込んで、「さあ、君の番だ」とパラシオスを振り返った。ところが、パラシオスが壁に描いた絵には覆いがかかっていて見えない。ゼウキシスは苛立って、「その覆いをはやく取りたまえ」とせかした。そこで勝負がついた。パラシオスは壁の上に「覆いの絵」を描いていたのである。

瞑想に関する本を読んでいて、瞑想的/非瞑想的な行為の比喩としておもしろい例があったのでそのまま引用した。*1

ゼウキシスが勝負に負けた理由。それは現実を見誤ったからにほかならない。彼にはまず「絵とはこういうものである」という思い込みがあり、それゆえ目の前にある現実を認識することができなかった。「絵に覆いがかかった絵」を描く人はいないと思っていたのである。なぜそのように判断してしまったのか。それは過去の経験や常識に執着していたからだろう。過去の経験や常識から思い込みが作られ、それにしがみついていたのである。彼の行為を「非瞑想的」と定義すれば、「瞑想的」とはなにかがはっきりする。さきほど瞑想とは「何かに心を集中させる、あるいは対象に意識を向けること」と言い換えた。この絵に覆いがかかった絵の例を参照するなら、もう一つ付け加えることができる。それは過去の経験や常識を手放して、現実と向き合うことである。

観察しても相手は見えない

そろそろ本題に入ろう。ナンパと瞑想についてである。僕は瞑想がナンパにおける相手を観察するという点において、とても重要だと思っている。

一般的に相手を観察するというのは、相手の心理状態を探ることだ。ナンパでいえば、目の前にいる女の子が何を感じ、どのように考えているのかを知るということ。楽しんでいるのか、退屈しているのか。恋愛経験は豊富なのか、浅いのか等々。女の子の表情、仕草、会話、声、服装などから、心理状態を想像する。つまり観察するというのは相手をただ見ているだけでなく、相手から発せられる情報に意味づけをすることでもある。

観察には必ず主観が伴う。当たり前すぎる話かもしれない。ニュートン万有引力の法則を発見したのは、「りんごが木から落ちた」のをただ観察していたわけではない。そこに意味づけをしたことによって、一定の法則を見出したのだ。ナンパが上手くなること。女の子を観察し続けることも、そのような法則を見つけることだといえる。声のかけ方、ギラやグダ崩しの方法、即りやすい女など。積み重なった経験よって観察力は磨かれる。

科学なら再現性は高いだろう。しかし、ナンパにおいて再現性の高い法則はあるのだろうか。いくら上手い声のかけ方をしても、断られることのほうが多い。それにもかかわらず、ある法則を見出そうとするのは、過去の経験や知識に執着することではないだろうか。紋切り型のギラやグダ崩しなどが典型的だ。それはまさにゼウキシスと同じ、非瞑想的なふるまいだといえる。

観察しても相手は見えない。むしろ観察しようとすればするほど、現実の相手とはズレが生じる。繰り返しになるが、観察とは自分の枠組みで相手を見ることであり、見たいように見ているだけだからだ。相手を本当に観察できるとしたら、それは「観察している自分を捨てていく」ことによって成立するのだと思う。自分の思考から離れて、相手に意識が向いている状態。その時、相手の心理状態を探る必要はない。相手の心理状態はおのずと自分の内に浮かび上がるのだと思う。

瞑想的なセックス

少し前にナンパで知り合った人妻とすごくいいセックスをした。いま思えばそれがとても瞑想的だった。セックスしている時、こうしようなどと考えている自分はいなかった。「相手の身体に触れている時、相手の表情をよく見なさい。」とはよくいわれるが、そのような意識さえなかった。でもいつもより相手の身体に触れ、相手の表情を見ていたのだと思う。相手が存在せず自分も存在していないような感覚。あるいはセックスという行為そのものになった気がした。射精的な「気持ちいい」という快楽はほとんどおまけで、挿入以前に身体中から幸福感が湧き上がってきた。うまく説明できないが、自分を手放して相手と向き合うという瞑想の状態に近かったのだと思う。

なぜ瞑想的なセックスができたのかは自分でもまだよくわかっていない。それでも原因を探ると、自分も相手もセックスする前に緊張感があったことは大きかった気がする。相手がどうでもよかったら緊張はしないし、余計なことばかり考えてしまう。その時は自分の感情を相手に偽りなく示し、向き合う覚悟があったと思う。

ただ、その人妻とした2回目のセックスは瞑想状態とほど遠かった。それは1回目にいい体験ができたので「もっといいセックスをしたい」という欲望が出ていて、頭で考え過ぎていたからだと思う。テクニックやマニュアル的なことに意識が向き、目の前の相手と向き合っていなかった。そうやってテクニックやマニュアルに執着すると、瞑想的なセックスへの扉は閉ざされてしまうのだろう。セックスは1回目より2回目、2回目より3回目のほうが良くなるとは限らない。その点は、じっと一つの場所に座る瞑想ととても似ている。本当は相手が同じでも二度として同じセックスはないのだから。

コミュニケーションとしての瞑想

瞑想はじっと座って深い内省に入るよりも、コミュニケーションにおいてより意味を持つのだと思う。

先日習ったロシアの武術・システマでは構えや型がないと聞いた。構えや型を捨てることによって、相手の動きに瞬時に反応できる。本当は反応すらしていないのかもしれない。反応とは、相手の動きが先にあり、それに対応する動きだが、システマ的に構えや型を手放すとは、相手が動いたと同時に自分も動いていることに近い。

コミュニケーションも同じだと思う。コミュニケーション能力を向上させようとするのは、構えや型を持つことを意味する。構えや型を持てば、自分の内側が固まっていく。すでに述べたようにそれは自分の枠組みを通して相手と接することだからだ。相手の動きに反応すれば自分の動きに遅れが生まれるように、自分の枠組みを持つことは相手とのズレを生む。そのズレを解消するのに瞑想は大いに役立つのだと思う。

サンガジャパン Vol.11(2012Autumn)

サンガジャパン Vol.11(2012Autumn)

*1:サンガジャパンvol.11「なぜ、いま瞑想なのか」に寄稿されている内田樹の「身体と瞑想」より