ナンパという行為を決定づける要素

日常的にナンパをしていながら、ナンパということばが嫌いだ。そのことばから連想するのは「チャラい」「軽薄」といったワード。堂々と周りの人に「趣味はナンパです」と宣言できないのは、ナンパの世間的なイメージが、公にするべきではない・忌むべき・モラルに欠ける行為だからだろう。

昨日、渋谷でストしていた時の話。少し緊張した面持ちで男の子が女の子に話しかけている。「出身どこ?」「○○です」「本当に!?おれも○○だよ!」。ちょっと離れた場所から見ても、彼の緊張が伝わり、無理に打ち砕けた言い方で話しかけているのがわかる。サークルの新歓で集まっている大学生の一群を観察していた。

「出身どこ?」と女の子に話しかけた彼。「すいません」と女の子に話しかけた僕。彼も僕も、いま出会った見知らぬ他者に話しかけている。でも彼の声かけは忌むべき行為ではないし、僕の声かけはモラルに欠けているのかもしれない。一体、どこを境にして「見知らぬ他者に話しかけること」がナンパというネガティブな文脈に引き込まれてしまうのだろうか。

「共有感の弱さ」と「性的欲望の強さ」がナンパを生む

ケース1:海外旅行中、旅先で日本人と思われる男を見つける。自分と同い年くらいかもしれない。何のために来ているのだろう。そこで自然と話しかける。「日本人ですか?」

ケース2:海外旅行中、旅先で日本人と思われる女の子を見つける。自分と同い年くらいかもしれない。何のために来ているのだろう。かわいいな。そこで思い切あって話しかける。「日本人ですか?」

ケース3:家の近くのコンビニには、かわいい女の子のスタッフがいる。もう何度も行っているので、お互い軽いあいさつ程度はする仲だ。でももっと女の子に近づきたい。お店の中ではあいさつ以上の会話ができない。ラブレターを書いて、渡すことに決めた。「個人的な手紙なのですが…」

ケース4:路上で女の子に声をかける。「すいません」

最初の声かけだけでナンパと定義できるのはどのケースだろうか。まずケース4。これは路上で声かけしているので明らかにナンパ。ケース3も女の子は「ナンパされた」と思うはず。ではケース2は?男が女の子に対してかわいいと思っていても、女の子はそれに気づかない。「同じ日本人という共通点があったため話しかけられた」と解釈するので、ナンパとはいえないだろう。ケース1は明らかにナンパではない。

上のケースを見ていくと、「ナンパ」という行為を決定づける要素は、「共有感」と「性的欲望」だと思う。共有感とは他者と「場/空間/状況」を共有しいてる感覚。この共有感が強ければ相手は話を自然と聞いてくれるし、逆に弱ければ相手は不自然に思って話を聞いてくれないかもしれない。ケース1とケース2では「日本から海外に来た」という状況が強い共有感を生み出しているため、相手はこちらの声かけに間違いなく応じる。一方、ケース4では何も共有していないのでガンシカされることもある。ちなみにクラブで女の子に声かけするのは明らかにナンパだけど、クラブという場を共有しているので、路上と違って無視されることはない。もう一つのカギは性的欲望。共有感がどれだけ弱くても、性的欲望がなければ、ナンパとはいえない(ケース1)。ケース1で話しかけたのが男ではなく女でも、老人やかわいくない子だったら、ナンパとはいわない。「ナンパ=チャラい」と思われるのは、その性的欲望があらわになっているからだろう。


性的欲望はキッカケにすぎない

ナンパという行為には必ず性的欲望が伴う。ではナンパの成功とは相手とセックスして性的欲望を満たすことだろうか。ナンパ師のほとんどはそう思っているのかもしれない。何ゲットしたかという量によって、あるいはいかにいい女をゲットしたかという質によって、ナンパの成功が決まっていくのだろう。

僕自身についていえば、最近セックスに飽きた。もっといえば、セックスに至るまでの単純なプロセスに飽きた。居酒屋で口説いて、家に連れてきて、服脱いで、抱きしめて、腕枕して、寝る。相手は変わっても同じことの繰り返し。「今日もうまくいったな」と自分のテクニックを再確認するだけで、そこに喜びはない。

繰り返しになるが、性的欲望は重要だ。しかし、それはあくまでもキッカケにすぎないと思う。ナンパの面白さは、その先にある体験だろう。それは、普段の人間関係から離れて、知り合う必要もなかった人と知り合うこと。社会的な属性から離れて、子どもでも学生でも社会人でもない自分に気づくこと。いままで触れたこともない価値観に出会うこと。見ず知らずの人に自分の人生を接続すること。相手の人生に影響を与えること。あるいは自分の人生に。ナンパの面白さはそこにあると思う。